2008年07月01日

良寛のロハス考 《その8》

 全国良寛会常任理事・松本市壽さんが、南無の会機関誌『ナーム』に掲載中の「良寛のロハス考」を転載させていただいています。今回はその第8回「糞掃衣はどこへ」です。(2008年8月号より)


糞掃衣はどこへ
 いきなり尾籠(びろう)な話から始めることをお許しいただきたい。良寛は()(ごう)(あん)の便所で、尻を拭くのにどんな物を使っていたのでしょうか。こういう質問がNHK文化センター青山教室で良寛講座の講義中、便箋に書いて私の手元に届いた。ryoukanzo-hansin.jpg
 教室での質問ではあったが即答もできず、後で詳しく便箋に(したた)め、質問者に郵送した。こういうところに疑問をもつ人は少なくないと思う。誌上を借りて考察しておきたい。
 現在では、トイレットペーパーがあり、水洗便所がある。最近のはウォッシュレット式で、水圧のかかったノズル(噴出口)が出てきて汚れを洗いすすぐ装置が普及している。ペーパーは水濡れを局部的に拭き取るだけでいいことになった。
 良寛の時代には、紙は貴重品であって、とうてい尻を拭くなどもったいなくて出来はしなかった。それどころか良寛は習字用の和紙にも不自由し、数十枚の紙が真黒になるまで練習した。それを日にあててまた乾かし、黒光りする紙に再三にわたって重ねて書いたのである。
 それくらい紙を大切にしていた。私の記憶では私たちも、六十年前ごろの戦中と戦後しばらくは、新聞や古雑誌の『家の光』など手に入る紙を所定の大きさに切り、柔らかくもみほぐして便所で用いた。やがてちり紙やロール紙が出回り、今はそれが主流になった。
 紙を使っでいなかったとすると、良寛はポロ布で拭いていたのではなかろうか。もちろん布切れも貴重ではある。しかし、くたびれた布は最後は引き裂いて尻拭きにするしかない。紙とはちがい、布は水濡れに強いため、使用後は水で洗えば再度使用できる。
 良寛はいつでも貧しかったから、ポロの衣しか身につけていなかった。それを漢詩にも詠んでいる。これを訳出してみよう。
 ──俗塵に染まらない自由な私は、俗人たちの中に暮らしている。だからポロを着る貧しい生活、これが生涯なのだ。食料は道ばたで(たく)(はつ)し、家は雑草にうずもれたまま。
 ──月に向かえば秋の長い夜を歌って過ごし、雲をながめては(いおり)に帰るのを忘れる。いったん円通寺を出てからは、誤ってこんなのろまな馬になってしまったよ、と。
 漢詩だけでなく、和歌もある。
  (あき)もやや ()(さむ)むになりぬ わが(かど)
    つづれさせてふ (むし)(こゑ)する
 秋もしだいに夜が寒くなると、庵のまわりで一斉にコオロギの声。その鳴声は「つづれさせ」と、着物のほころびを(つくろ)()いしなさいと催促しているかのように聞こえる。
 良寛が着たボロ衣も、やがては切り裂いて雑巾や糞掃に使用されたであろう。ところで禅宗では、この(ふん)(ぞう)()を格別に尊重するという伝統がある。
 (どう)(げん)の『(しょう)(ぼう)(げん)(ぞう)(でん)()の章に、法を伝える証拠として身につけた()()を師から弟子に与えるのを伝衣というとある。その「袈裟」の衣こそ、糞掃衣によって作られた尊い(ほう)()なのであるという。歴代の祖師たちはこの法衣すなわち衣法を正伝して生涯()()し法を伝えたとあり、以下この糞掃衣の精神を詳しくのべている。
 糞掃衣にもいろいろある。一は牛が噛みくだいた衣、二はネズミの噛んだ衣、三は火に焼けた衣、四は経血に汚れた衣、五は産婦の衣、六は神廟に用いられた衣、七は墓場の死者の衣、八は人の願いがこめられた布、九は国王の賜物、十は道端に捨てられた布、と十種の糞掃衣を列挙する。いわば何でもあり、廃棄された布切れだ。
 もともと袈裟衣は、このように人の打ち捨ててかえりみない布切れを拾い集めて(せん)(じょう)し、自分で縫い合わせて作られるべき衣なのであった。最初から金絲を織り込んだ布であってはならないのである。
 あふれるゴミを処分するのに困っている現代から見れば、まことにロハスの原則にかなっている。仏法こそロハス的なのである。
 道元のこのような聖典をもつ曹洞宗でも、良寛の時代はそこに秘められた精神がすっかり忘れられてしまっていた。良寛に糞掃衣の精神に帰るべきことを教えたのは、円通寺の師(こく)(せん)和尚ではなく、むしろ越後紫雲寺村の観音院の(そう)(りゅう)であった。五合庵
 これが契機となって良寛は、寺の住職とならず托鉢の(こつ)(じき)(ぎょう)の僧として生きる覚悟を決めたのである。わずかに残っている史料から推測するに、良寛は宗龍和尚と問答した跡がある。これを要約すると良寛は、寺の住職として生きることが是か非かと問うた。
 宗龍は、寺に入るのも(でん)(ぽう)のひとつの(ほう)便(べん)ではないかと折衷案をのべたが、良寛はそれを否定した。そこで宗龍は「それならば、お前はどう生きるつもりなのだ」と問い返す。良寛は「今は何ともはっきりとは申せないが」と口ごもる。
 思案の挙句に、良寛が帰郷して選んだ僧の生きかたは、寺に入らず托鉢の乞食行のみで行くという厳しい道であった。良寛にしてみれば、町名主という地位を捨てて出家した自分が、宗門というもっと大きな僧団の組織の家に参入することになる。家を出てこその出家なのに、それは数倍も大きな家に入ることになるではないか、とこれを否定して生きたのである。
 良寛の尻を何で拭いたかという質問から、話は思わぬところまで大きくなった。尻を布で拭いても紙で拭いても、時代の変化が反映されている。ついつい、道元の提唱した糞掃衣の話に波及してしまった。
 トイレが水洗化したことで、建築の高層化が極度に進み、川崎市の東横線武蔵小杉の駅周辺は六十階以上の高層マンションが林立するまでになった。中国の上海でも、今やびっくりするほどの高層化が進んでいる。
 建築の高層化は、グローバル化のシンボルである。作家の橋本治は、温暖化を止めるため十階以上の高層ビルを今すぐ破壊せよと提案した。高エネルギー維持が必要となり、ますます温暖化するのだと。私も大賛成である。
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2008年06月09日

新刊紹介『良寛のスローライフ』

前々回、速報でお知らせした松本市壽さんの『良寛のスローライフ』がNHK出版から生活人新書として出版されました。内容については「まえがき」が詳しいので、少し長いですが、それを転載して紹介にかえさせていただきます。 


良寛のスローライフ

こんな生き方があったんだ


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 良寛ほど世人から誤解されている僧の例も珍しい。いったい、人家の前に立ち戸毎に托鉢してまわる乞食(こつじき)坊主なんて、偉いといってもどこが偉いのだ。僧ならばなぜ、お寺の住職になって威儀を正して出直してこないのか。
 しかも、まじめに托鉢でまわるならまだしも、お米を頂戴すべき木鉢を石の上に置いたまま、出会った子どもたちと手まりをつき、ハジキなどをしては遊びほうけていたというではないか。良寛の生きた時代だけでなく、現代にもこうした見方をする人は多い。また、良寛のありように関心を示さない人もかなりある。
 しかし、やがて良寛は清貧な高徳の僧であると知っても、「グローバル化時代の生存競争にしのぎを削っているというのに、良寛のような悠長な人生態度では自分たちの間尺に合わないよ」と忌避されるケースも珍しくない。
 良寛が生まれてから250年になる。その間にも、じょじょに良寛の顕彰はひろがりを見せたが、こうした誤解はおおむね変わらないように見える。
 それというのも、良寛の考えていたことやその人生態度が一般の人にわかりにくいのではないのか。良寛の思想をもっとわかりやすく、しかも現代の私たちの生活実感に即して良寛を登場させてみたらどうなるかを考察してみたらよいのではないか。そういう動機から本書は企画された。
 

良寛はどんな経歴の人か

 良寛は宝暦8(1758)年に越後出雲崎(新潟県三島郡出雲崎町)に生まれ、天保2(1831)年2月6日、享年74で没した。江戸後期に活躍した人である。
 生家は古くから町名主をつとめた橘屋山本家である。出雲崎海岸を見おろす石井神社の神職をかねた同家の長男に生まれた良寛は、幼名を栄蔵(えいぞう)といった。元服して文孝(ふみたか)と名のり、父以南(いなん)(本名・泰雄(やすお))の跡をつぐため名主見習役にまでなったが、ある事件がもとで、考えるところあって18歳で家出する。
 のちに尼瀬(あまぜ)光照寺(こうしょうじ)玄乗破了(げんじょうはりょう)和尚のもとに身を寄せ、22歳で備中玉島(岡山県倉敷市)の曹洞宗円通寺の住職大忍(だいにん)国仙(こくせん)にまみえ、大愚良寛という法号を受けて正式に出家得度。円通寺におもむき足かけ12年間の禅僧修行に励んだ。
 出家した良寛に代わって町名主の山本家を継いだ弟の由之(ゆうし)(本名・泰儀(やすよし))は、町民との争いがもとで敗訴し、文化7(1810)年に町名主の地位を奪われ、「家財取上げ所払い」(財産没収・居所追放)となつて名門橘屋は没落してしまう。
 良寛は、師の国仙和尚より印可(いんか)の偈(禅僧の修了証)を授けられたが、円通寺を出てから良寛の足跡は定かでない。土佐(高知市)近くの庵に住んでいた良寛と出会ったという近藤万丈(こんどうばんじょう)の手記『寝ざめの友』の記述が、わずかに四国地方を放浪していたころの消息を伝える程度である。円通寺を出てからの良寛が寺の住職になろうとしなかったのは、早くから深く心にきめていたことだと見られる。
 良寛は寛政8(1796)年の39歳のころ、托鉢行脚(たくはつあんぎゃ)の乞食僧の姿で出雲崎の生家の前を通りすぎ、寺泊郷本(ごうもと)(長岡市)海岸の漁師の塩焚き小屋に住みついた。もっと早かったとする説もある。その寓居を拠点に里の家々を托鉢してまわる修行僧のままの生活から、故郷での良寛の後半生が始まった。
 その後、旧友の原田鵲斎(じゃくさい)の斡旋で、他宗ではあるが真言宗国上寺(こくじょうじ)五合庵(ごごうあん)を借りて住むことが許された。五合庵は国上山(くがみやま)中腹にある。ここは良寛のお気に入りで、二〇年以上も五合庵を拠点に活躍し、たくさんの漢詩や和歌を作り、それらを流麗な墨跡として近隣に「布施」した。この達筆な墨跡ゆえに良寛の名声が高まった。
 良寛が五合庵を出て、国上山の麓の乙子(おとこ)神社の草庵に移ったのは、文化13(1816)年、59歳のころである。乙子草庵での10年間は創作意欲が最も旺盛な時期で、詩歌や書芸が多彩に花開いたのである。
 老齢になり山住みの不便さを避けようと、文政9(1826)年、69歳のとき、島崎(長岡市)の木村元右衛門の裏庭の庵室に移った。その翌年、良寛より40年若い美貌の貞心尼が尋ねてきた。貞心尼は福島(長岡市)の閻魔堂の庵主だったが、所にふれて良寛と和歌を交わし、老衰した良寛を看取ってくれるほどの親密な仲になつた。
 天保2年になったばかりの1月6日の午後4時ごろ、島崎の草庵で良寛は亡くなつた。死病は直腸ガンと見なされている。その墓は木村家の菩提寺である浄土真宗隆泉寺(りゅうせんじ)の木村家墓域にある。3周忌追善法会を期して「良寛禅師墓」と刻まれた巨大な墓碑が建立された。「良寛禅師墓」とあっても、良寛は幕府から認証された「禅師」ではない。越後の有力者からの衆望を担ったものである。

今なぜ良寛なのか

 このように独特の生き方を貫いた良寛は、僧でありながらなぜ寺の住職にならなかったのか。これについては、良寛が書いた「請受食文(しょうじゅじきもん)」(食を請い受けるときの心得を述べた文)がある。ここに明快な所信を述べている。
 もともと僧であるからには、里に出て必ず人家の門に立ち、鉢を差し出して食を乞わなくてはならない。物もらいの乞食だと蔑まれようとも、仏法を広める作法として托鉢こそ釈尊以来の伝統というものであると。
 食を受けるにあたり、「ひとつには食物が作られるまでの労苦の並々ならぬことを思い、ふたつには食物の由って来たる処を思い、みっつには自分がよく勉めているか怠けているかを計って供養を受け、よっつには修行で痩せた肉体を癒やすために、いつつには身を保って仏道を成就させるために、この食事をいただくのだ」と心得よ、と列記する。
 気をつけるべき肝心の要点は、「托鉢の作法にかなつた穢れのない食は食してよいが、過ぎた蓄えや、身分の高い人におもねって得たおいしい穢れた食は食してはならぬ」と。食の浄・不浄は受ける側の精神態度にあると言う。
 もともと寺で広く行われている葬式は、本来が儒教のものである。江戸時代になって徳川幕府がキリスト教を排斥するために、
寺請(てらうけ)檀家制度で仏教を保護したことに便乗して、寺での葬式と法事が盛んになった。
 葬式・法事での収入が利権化し、寺では僧侶たちが托鉢しなくとも食べていけるようになったため、乞食なんて屈辱的に見える作法をやらなくなつた寺のほうが本流となり、良寛の托鉢行のほうが珍しくなつた。これは本末転倒もはなはだしい現象であるといってよいが、良寛の時代はそんな風潮であった。
 良寛が寺の住職にならなかったわけが、ここにある。
 この考え方は、良寛が修行時代に出会った
宗龍(そうりゅう)和尚からの影響によるもので、宗龍は「糞掃衣(ふんぞうえ)」の初心に帰るべきことを説いていた。糞掃衣とは、捨てられた汚れ布を自身で拾い集め、継ぎ合わせて作る袈裟のこと。すべてこれに準じよと。寺に入ってしまうと、その精神が損われるという。良寛はこの考え方で一生を貫いたのであった。
 良寛は里をまわることにより、直接の仏徳を里人に分け与えようとしたのである。
 子どもたちと手まりで遊んだのは、当時の越後は子だくさんの国だったが、子どもは足手まといだとして放置されていた。良寛は托鉢のかたわら、進んで子どものお相手をするボランティア(奉仕)の先駆者であった。これは仏法の「
布施行(ふせぎょう)」の実践である。
 良寛が実践した徳育は、現代では多くが制度化され整備されたかに見える。しかし、その「
利他行(りたぎょう)」の精神はずっと後退したままであるといってよい。物あまりと利便性を追求するため、むしろ内面では心の貧困化が進んでしまったのではなかろうか。
 グローバル化の現代は、私利私欲の競争社会から排出される地球温暖化ガスで気象に異変が起こり、環境破壊が足もとに迫るという恐るべき状態になつてしまった。人間が人間らしく生きるためには、良寛が生きて示したスローライフの規範をモデルに考えなおすことが求められているのではないか。

解良栄重の『良寛禅師奇話』について

 本書は南無の会の機関誌・月刊『ナーム』に、
2006年1月から24回にわたって連載した「良寛のこころを生きる」を大幅に加筆構成したものである。同誌からの当初の要請は、解良栄重(けらよししげ)の『良寛禅師奇話』をきっかけに良寛の生きたさまとそのころを述べてほしい、というものであった。
 これを書いた解良栄重は、良寛を尊崇した
外護者(げごしゃ)のひとり解良叔問(けらしゅくもん)の三男である。良寛より52歳年少だったが、良寛がしばしば解良家を訪ねてきたり泊まったりするのを見て育ち、国上山の五合庵までお使いに走ったこともある。
 栄重は、良寛の没後
17年目に38歳で『良寛禅師奇話』を書いた。52歳もちがう良寛の伝記とあれば、自分の祖父と同じくらいに年の開きがある。これはおそらくは56段にふれた近藤万丈のすすめによるものと考えられる。実際に自分の見た良寛の行状や、伝聞をまじえてこのように順不同の箇条書にまとめあげた。
 これが
相馬御風(そうまぎょふう)によって広く知られると、これをもとに多くの童話や伝記が書かれた。いわば良寛伝記の原本といってよい内容のものである。良寛にはたくさんの漢詩や和歌があり、書簡(手紙)も多く残されている。しかし、第三者である栄重の書いた『奇話』には、それにもまして不思議なリアリティがある。良寛のスローライフの目撃証言という趣がつまっている。
 本書は、『奇話』原文を余すところなく配置して、良寛の生きたありようと現代的な意義を考察しようとしたものである。これぞ「良寛のスローライフ」という所以である。巻末には現代語訳をつけて原文では読みとりにくい意味を補った。

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2008年05月31日

良寛のロハス考 《その7》

 全国良寛会常任理事・松本市壽さんが、南無の会機関誌『ナーム』に掲載中の「良寛のロハス考」を転載させていただいています。今回はその第7回「歩け歩くの効用」です。(2008年7月号より)


歩け歩くの効用

 良寛は22歳で出家(しゅっけ)得度(とくど)して以来、享年74歳で没するまで、ずっと托鉢(たくはつ)行脚(あんぎゃ)乞食(こじき)(ぎょう)を生き抜いた。その消息は、彼が書き残した多くの詩歌によって知ることができる。
 まず初期の詩集『草堂集(そうどうしゅう)貫華(かんげ)』にある「天気(てんき)稍和調(ややわちょう)」で始まる詩10にはこうある。現代語訳にして見よう。
 ──春の気候も次第になごやかになったので、錫杖(しゃくじょう)を鳴らしながら町中にやってきた。庭の柳は青々と、池の面には浮き草が水にゆれている。托鉢で頂戴(ちょうだい)したご飯が鉢の中で芳香をはなち、わが心は阿難陀(アーナンダ)が王子の位を捨てられたように、俗世の名誉は捨て去った。こうして仏弟子(ぶつでし)としての修行に従事し、ゆっくりと托鉢をしながら歩いてゆくのだ、と。
 アーナンダ(阿難陀)はインド仏教の第二祖のこと。釈尊(しゃくそん)のいとこで王舎城(おうしゃじょう)に生まれたが、王子の位すら捨てて出家した。良寛はもと出雲崎(いずもざき)町名主(まちなぬし)の世継ぎであった。それを捨て、祖師の生きざまに見習ったことをここに宣言したのである。
 托鉢で回ったとしても詩10のようにいつも「喜捨(きしゃ)」に恵まれたわけではない。詩406には「(くう)()」と題し「青天(せいてん)寒雁(かんがん)()き、(くう)(ざん)(もく)(よう)()ぶ、(にち)()(えん)(そん)(みち)(ひと)(くう)()(かか)げて(かえ)る」と五言四句を詠んだ。訳出する。
 ──青空を冬の雁が渡って行き、人もいない山には木の葉が飛んで散ってゆく。夕暮れに(もや)のたちこめた村里の道を、ただひとり(から)の鉢を持ったまま帰ってゆくのだ、と。
 このように、喜捨に恵まれない日のほうがむしろ多かったとさえ言える。しかし、良寛は来る日も来る日もひたすら托鉢に歩き回った。これは、ただのくたびれ儲けではなかろうかと言われそう。だが、その中にも番外の愉しみがあった。
 もうひとつ「(せい)(y9う)()(がつ)(はじ)め」で始まる五言二十句の詩86がある。
 ──春の二月ともなると、自然のあらゆるものが色あざやかになる。そこで私も木鉢と頭陀袋を携え、町に出かけて店々をあちこちと托鉢してまわる。子どもたちはふと私の姿を見かけて、いかにもうれしそうに手をつないでやってくる。そして私をお寺の門のそばで待っていて、私の手をひいてゆっくりゆっくり歩いてゆく。私は木鉢を白い石の上に放り出し、頭陀袋を松の枝にかける。
 ──こうして草遊びをしたり、まりつきをする。ついてついてまたついて、時間がたつのに気がつかない。通りがかりの人が私を見て()く、どうしてまりなどついておいでかねと。私は答えられずにうつむいたままだ。何と答えていいものやら。まりつきの意味をお聞きになりたい、と?。はい、もともとこれをこうしているだけのことですがね。
 良寛が托鉢行から子どもたちとの手まり遊びに推移する様子が目に見えるようだ。これはむしろ、良寛の作った長歌から見ていくと、その躍動感がビンビン伝わってくる。
 ──(かすみ)()つ、(なが)()(はる)()に、(いひ)()ふと、(さと)にい()けば、(さと)()ども、いまは(はる)べと、うち()れて、み(てら)(かど)に、()まりつく、(いひ)()はずて、そが(なか)に、うちもまじりぬ、その(なか)に、()()()()()()()()(うた)ひ、()はつき、()(うた)ひ、()はつき、つきて(うた)ひて、(かすみ)()つ、(なが)(はる)()を、()らしつるかも
量感像と手まり 托鉢で歩いても喜捨に恵まれないとは、回る側のつごうから見た言い種にすぎない。僧は里の家々の(あん)(ねい)を見守るためパトロールしているのであり、これは僧たる者の自発的な布施行。それに感謝する意味の報酬として「喜捨」が与えられ、僧が地域社会に生存することを許される。
 もともと僧として報われなくとも務めるのが当然なのに、ただのくたびれ儲けとは仏道の何たるかをわきまえぬ者の()(らち)の言である。ここに仏道の原点がある。たとえ報われぬと思ったとしても、一日半日と歩いておればそれなりの効用に恵まれる。それはただ歩くことで、心は澄清になり、頭脳は活性化し、気分は前向きとなりストレスが解消される。
 良寛の詩歌や、それを書き記した流麗なる書芸のすぐれた作品の誕生の秘蜜は、歩け歩くの効用から出たものである。ただ庵にこもって思案するだけでは、あの冴えわたった詩歌や書芸は生まれようもなかった。
 現在は糖尿病などの生活習慣病や、いま問題になっているメタポリック症候群などの予防や健康維持のために、歩くことが非常に効果的であることが科学的にも証明されてきた。さらに、歩くことが認知症を予防し長寿につながることが言われている。メタポリック症候群というのは、内蔵のまわりについている内臓脂肪が高血圧や高脂血症と結びつき、動脈硬化など生活習慣病となるリスクが高まっているという一連の考え方である。
 これらは、クルマ社会となって人が歩かなくなり、食あまりの飽食でカロリー過多となったその弊害から回復しようと「負」の状態からの発想にすぎない。『脳が若返る歩く習慣』という書物がもてはやされている。追い込まれて、ようやく気づいた季節はずれの発見だが、気づかないよりもマシと言うべきか。
 良寛が托鉢の途上で、子どもたちに呼びとめられ、草遊びや手まりつきに夢中になるなど、僧としての本分からはずれた所行であろうか。そんなことはない。農作業の手伝いや、他国へ奉公に行ける日まで、当時の越後の子どもたちは、保育の施設もなくただ放し飼い同然の状態にあった。良寛は進んでこれに光を当てたのである。
 ややもすると、良寛が実践したような社会福祉とか慈善行は、今日では福祉や慈善の美名のもとに報酬が目当ての営利事業となってしまってはいないか。良寛を賞揚するそのわけは、まず報酬をアテにするのでない自発的な無償の供与にある。里人から「なぜ」と詰問されても、けっして恩着せがましく開き直ったりせず、ひたすら低頭するその態度の中にある。

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2008年05月12日

良寛のロハス考 ≪その6≫

 全国良寛会常任理事・松本市壽さんが、南無の会機関誌『ナーム』に掲載中の「良寛のロハス考」を転載させていただいています。今回はその第6回「粗食がいちばん」です。(2008年6月号より)

粗食がいちばん
 良寛の食生活は、どうなっていたのであろうか。(こつ)(じき)(ぎょう)とは生きる(かて)を求めて里の家を巡回するが、文字通り「(じき)()う」ためであり、生きるための「いのちの糧」を得るか否かを一個の鉢に預ける「(たく)(はつ)(ぎょう)」ともなっていた。
 里の家々から直接の「()(しゃ)」を受けながら、直接の「()()(ぎょう)」を人びとにもたらすというスタイルは、良寛が選択した(しゃく)(そん)以来の伝統仏教の作法であった。
 寺ならば、僧団による相互協力によって「喜捨」の分配があるから、リスクは半減されようが、()(しゃく)の良寛は「喜捨」がなければ飢えるしかない。バラつきがあって、なかなかの苦労のあったことが想像できる。
 良寛の詩集『(そう)(どう)(しゅう)(かん)()』にある詩117に「(きつ)(まい)」(お米の無心)と題した五言十句がある。訳出しよう。
 ──さびしい三間の(いおり)に、病み衰えたこの老いの身を寄せています。まして今は冬のまっただ中で、その辛さときたらことばでは尽くせないほどです。毎日おかゆをすすって寒い夜をしのぎ、春の暖かい日が来るのを指折り数えて待っています。
 ──今あなたから少しばかりのお米の(ほどこ)しを仰がなければ、どうしてこの苦しい日々をやり過ごすことができましょうか。心を落ちつけて考えてはみたものの、生活のてだてがつきません。こうして親しいお方に詩を書いて、お米のご寄進をお願いするしだいであります、と。
 このように、寒い冬の中途で米が切れたときは、緊急の処置として近くの庄屋、阿部(さだ)(よし)のような外護者に助けを求めたのである。詩句に「静かに思ふも活計なし」と、思案するあたりに嘆息する良寛の実感がのぞいてる。
 米は主食であって、水をたくさん入れて炊き、お(かゆ)にすることが多かったであろう。また雑穀とか、芋や山菜を混ぜた(ぞう)(すい)も多かったのではなかろうか。すべて良寛はこれを自炊でまかなっていたのである。托鉢で米をもらってきて、それを自分で調理して食べる。つまり、食を通した「いのち」の営みを自分で管理するのが、禅僧としての大切なつとめだった。
 良寛の書簡(手紙)は270通が残っている。これを見ると、いただき物への礼状が多くて、いただき物の受取証といった趣である。圧倒的に多いのは、食品をもらったことへの礼状である。
 多いものから列記すると、酒、餅、百合根、米、砂糖で、百合根は大好物だったらしく、親しい親戚からもらっている。その他農産物では、白麦、豆、みそ豆、野菜、菜、なす、(かん)(しょ)、山の芋、かしゅういも、大根、にんじん、ごぼう、唐辛子、みょうが、わらび、ぜんまい、せり、など。
 海産物として、のり、こんぶ、あおさ、(じん)()(そう)、ふな、など。神馬藻とはホンダワラのこと。加工食品として、かんぴょう、あぶらげ、やきふ、そうめん、くず粉、みそ、(きん)(ざん)()みそ、納豆、菊のみそ漬、なんばん漬、かりん漬、ちまき、茶、など。果物・菓子類として、りんご、ざくろ、菓子、(こん)(ぺい)(とう)(あわ)飴・ようかん、がある。
 当時の越後(新潟県)で、どの家でも食べていた食品なら何でも食べていたことがわかる。これといって特別なものは多くないが、その筆頭にはお酒がある。お酒は好物でもあったが、冬の寒さを防ぐ意味でも貴重な飲み物であった。座右に酒がなくてはすまなかったようだ。
 これらを見ていえることは、良寛は当然のことながら粗食であったというほかない。現代の栄養学的な見地からおすすめの食品などは、ひとつもないといっていい。しかし、良寛が当時としては74歳の長命だった理由は、ここにあると考える。
 越後は昔も今も米の主産地である。魚沼のコシヒカリはブランド米とされていて、米価も一段とランクが上である。つまりおいしいお米だからそうなるのだが、米飯が身体にいいことは、パン食が大幅に進出してきた戦後の食生活にもかかわらず、やはり真実である。パン食などやめて、もっと多くの米を食べたほうがいいと私は思う。
 良寛が托鉢でもらった米は、今日のようなきれいな白米ではなく、玄米か分づき米が多かったろう。だから身体にはよかったのである。
 (あい)()()(いち)は新潟市の出身だが、若いころ(かっ)()で苦しんだ。米どころ新潟で脚気にかかるのは、家が裕福できれいに精白した白米しか食べていなかったからである。良寛は、奇しくも父以南が苦しんだ脚気からまぬかれた。
 僧たるものは、わざわざ乞食に身をやつして里を回り、里びとに「布施」のサービスをすることによって食をいただく、というのが原則であるから、農耕などの生産には携わらない。しかし、禅宗ではよく境内にシイタケを栽培したり野菜を作ったりもした。これらは雲水(修行僧)の()()」という労働奉仕として取り入れられ、自家用の食品をまかなっていた。
 良寛も()(がみ)(やま)の空地で大根を作っていた。こんな歌が阿部家横巻にある。
  あしびきの 国上の山の 山(ばた)
    ()きし(おお)()ぞ あさず()(きみ)
 「あさず食せ」とは残さず食べての意。良寛は自家用の菜っ葉や大根などを栽培していたとわかる。家庭菜園
 良寛だってそうしていたのだからと、私は川崎市上麻生に転居して以来、元農家の家主からわりと広い農地(300坪)を預り家庭菜園をやっている。出版社づとめをしていた頃からだから、もう通算20年になる。 野菜多めの食生活がいいとはいっても、新鮮な四季の野菜を買ったのでは追いつかない。無農薬の有機栽培も、自分で作る以外に保証はない。中国から輸入された毒入り冷凍ギョーザが問題になった。自分の口に入れる食物を他国に依存していれば、いつかは必ず起きる事件であった。日本人よ大いに反省せよ。私は畑の一隅に2坪の小屋を営み、これを二合庵と名づけた。四季おりおりの愉しみスポットである。

速報:管理者より
 昨年までの松本先生の月刊『ナーム』連載は、NHK出版の「生活人新書」として6月頃出版される予定です。書名は『良寛さんのスローライフ』となる予定です。ご期待下さい。
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2008年04月13日

良寛のロハス考 ≪その5≫

 全国良寛会常任理事・松本市壽さんが、南無の会機関誌『ナーム』に掲載中の「良寛のロハス考」を転載させていただいています。今回はその第5回「不浄の食を摂らず」です。(2008年5月号より)

不浄の食を摂らず
 良寛が仏法の所信について書いた著述があるのか。たくさんの詩歌はあるが、良寛にはそんなものはない、と久しく不問のままであった。
 しかし、そうではない。なぜ寺に入らず
(たく)(はつ)(こつ)(じき)(そう)を続けるのか、その効用は何かについてを詳細に書いた「(しょう)(じゅ)(じき)(もん)」(食を請い受けるときの心得を述べた文)があり、「(かん)(じゅ)(じき)(もん)」(すすめられた食を受けるときの心得を述べた文)その一と二がある。
 このたびの『定本良寛全集』には詳細な訳注をつけ明快な解説をほどこしたから、ぜひ目を通していただきたい。これまでの良寛全集は原文ともしくは訓読文にとどまっていたため、あまりよく理解されていなかった。
 これこそ、道元の『
(しょう)(ぼう)(げん)(ぞう)』や親鸞の『(きょう)(ぎょう)(しん)(しょう)』にも劣らぬ根本仏教の立場を示したものである。良寛にはまた『(ほっ)()(てん)』と『(ほっ)()(さん)』などの大作もある。
与板・隆泉寺の良寛托鉢像 まず「請受食文」では「食事をもらい受けることは
(しゅっ)()(そう)のいのちであり……、ましてや(だい)(じょう)(しょう)(じょう)の道すじは異なり、(けん)(きょう)(みっ)(きょう)はかけ離れているとはいえ、これも同じ仏法である」と僧たる者が里に出て托鉢に回るべき必然性を説き起こす。 片や「勧受食文」には「そもそも僧たる者のならわしの目じるしや(にん)()の前に立って(じき)を求めることを生活の手段とすることであり、(はつ)を用いることを変わらぬきまりとしている」と僧ならば必ず人家の門に立ち、鉢を差し出して食を乞わなくてはならないというのである。
 乞食を仕掛けられても、里の家は気に入らなければこれを無視すればいい。ひつこく去らねば「お通り」と言って退去を命ずることもできる。どこへ行ってもそれだと、僧は飢えてしまう。それゆえ、門付けするからには里の家にサービスを施さなくてはならない。これが僧の側からする先手の功徳、つまりお布施なのである。
 布施にもいろいろあって、まず「
(ほっ)()」がある。お経をとなえ、仏法のすばらしさを感得させること。
 次に「
()()()」がある。生きる不安を和らげ恐怖の念を取りのぞくこと。さらに「(ざい)()」があり、衣服や飲食や田宅・珍宝などを提供することであるが、それは余力あってはじめて可能である。もらうだけでなく、余力はすべて還元しなくては。
 僧のもたらす「布施」の功徳を感得してから、はじめて里の家から授けられるものが「
()(しゃ)」である。
 朝日新聞東京版の夕刊で、この「布施」と「喜捨」との意味の
(べん)(べつ)を混同したまま、滔々(とうとう)と「布施」論を述べた花園大学教授がおられる。在家からの施しは「喜捨」であって「布施」ではないのである。ここは仏教の初心の何たるかを示す大切な勘どころ。
 良寛はまず、僧として托鉢そのものが釈尊以来の仏道のあるべき姿だと明示する。何はともあれ、托鉢は在家の里びとの接点となり、この交流なくしては仏法も始まらない。「布施」と「喜捨」の対句は、そのまま布教のルツボとなるといっているところが、良寛の言いたいポイントなのである。
 食を受けることにより、歴代の先師たちも法灯を伝えてきたと知らなくてはならない。食を受けるにあたって、「一つには食物が作られるまでの労苦の並々ならぬことを思い、二つには食物の由って来たる処を思い、三つには自分がよく勉めているかなまけているかを計って供養を受け、四つには修行で痩せた肉体を癒やすために、五つには身を保って仏道を成就させるために、この食事をいただくのだ」と心得よと。
 釈尊の経験から推して「飢えや渇きで苦しんでいるときには、肉体が調わない。肉体が調わなければ精神は調わない。精神が調わなければ仏道を成就させることはむつかしい」と食の意義を説き、また「飲食物をいただくことは薬を服用するようにせよ、うまいうまくないといって増減させてはならぬ」とも
(いまし)めている。
 気をつけるべき肝心な要点は「けがれのない食(托鉢の作法にかなった、心がけの正しい供養のための食など)は食してよいが、けがれのある食(過ぎた蓄えや、身分の高い人におもねって得たおいしい食など)は食してはならぬ」とある。まことに耳の痛くなる話ではないか。
 ここで「
(じょう)(みょう)(じき)」(けがれのない食)と「不浄命食」(けがれた食)とのちがいは、どこにあると良寛は考えていたかが分かる。食べ物が(しょう)(じょう)であるか()(わい)であるか、その差は表面からは判別できかねる。浄と不浄は、これを受ける僧の精神態度にかかっている。へつらいやおもねりの食こそ「不浄」だと、差し出す側よりも受ける僧のありように重点があると強調する。
 こう見てくると、良寛の「請受食文」と「勧受食文」で説いたところは、まっすぐに釈尊以来の仏道の原点をさし示し、何よりもまず僧として実践行に生きることの大切さを言う。けっして
(どん)(よく)に走ってはならないと。
 曹洞宗の僧としての
(いん)()()を授けられながら、寺の住職の生き方を頑固なまでに退けたのは、十分すぎるほどの根拠をもっていたのだ。
 その詩「
(そう)(ぎゃ)」に記したように「今の僧侶は、昼も夜もやたらに外に出てお経だの説教だのと騒ぎまわっている。それは衣食を(むさぼ)るためで、生涯を寺院の外に出て駆けまわることに費やしている」と。そして「出家のくせに道徳心のない者は、その汚れきった根性のゆえにどうにもならない、……僧たちは(ぶつ)()()と称する身なのに、人も救えなければみずから悟ることもない。ただ檀徒から受ける施しをむだ使いし、仏様にお仕えすることを忘れている」と嘆くのである。
 まさしく、貪りの
(ほう)(らつ)な欲にまかせた自制の利かない拡張の競争は、ひいては世間の経済活性化には多大の影響をもたらすであろうが、ロハス思考から見て感心できない。やがて回り回って自らを窮地に追いこむことにつながる。不浄の食を摂らずとは、良寛のロハスの原点そのものなのである。
posted by 良寛会 at 16:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 全国良寛会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月24日

新潟日報紙 一面トップに「良寛詩歌」連載

新潟日報紙
 新潟日報紙は3月24日から、紙面文字が拡大されましたが、それに伴い一面「新潟日報」の題字隣りに「良寛」コーナーが新設され、良寛さまの詩歌が1年間、毎日連載されることになりました。
 今年は良寛生誕250年という記念すべき年にあたります。新潟日報社から依頼をうけ、詩歌の選別から解説まで、全国良寛会が全面的に協力することになりました。

 全国良寛会では副会長・加藤僖一(新潟大学名誉教授)先生を中心に、編集委員会を立ち上げて、着々と作業を進めています。折々の良寛さまの俳句、短歌、漢詩などを親しみやすい解説で、良寛さまの心を皆様にお届けしたいと思っていますので、ご期待下さい。

 (コーナーの題字「良寛」は長谷川義明会長の揮毫)


 なお新潟県以外の全国の皆様は新潟日報のホームページでご覧になれます。

下記アドレスをクリックして下さい。
3月24日以降の詩歌も下記URLでご覧になれます。

 http://www.niigata-nippo.co.jp/ryoukan/
posted by 良寛会 at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 全国良寛会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月15日

良寛のロハス考 《その4》

 全国良寛会常任理事・松本市壽さんが、南無の会機関誌『ナーム』に掲載中の「良寛のロハス考」を転載させていただいています。今回はその第4回「木と土と漆喰の家」です。(2008年4月号より)

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